英国でポスドクをして大学教員になった若手研究者のブログ

ポスドクの研究留学日記的なブログ

2014年5月12日月曜日

科学のα。そしてω。

こんにちは。Yskです。しばらく空いてしまいましたが、今日はいつも通り長くなりそうなので、すぐに本題に入ります。

今日の話は現在日本中で注目を集めているSTAP細胞に関して考えます。Yskはこの成果がリリースされ、その後に問題が発覚し、最近になって一定の結論が与えられるまで傍観していましたが、ある種の危機感と責任感を覚えるに至ったので熱を入れて書きます。では行きます。

さて。もやは何がどうなったのか経過事項をわざわざ述べる必要はありませんが、この問題に関して3つのブログを載せておきたいと思います。
http://blog.livedoor.jp/route408/archives/52144365.html
http://www.huffingtonpost.jp/daiki-horikawa/obokata-kaiken_b_5122124.html
http://blog.livedoor.jp/braindrain23/archives/51314204.html
科学に関係無い一般の方々でも、というか今回は一般の方々に特に一目でも目を通してもらいたいものです。(本心は一目どころじゃなく、しっかり何度も読んでもらいたいのですが。。。)

その3人の方々と私とで共通することがあるのですが、それは責任感と危機感です。Yskは現在イギリスにいるので日本の様子を知るには限りがありますが、報道を見たりする限り、これらの感情を覚えずにはいられません。というのも、小保方博士の主張を擁護する一般国民が驚くほど多いからです。自分を含めた科学者の多くは、彼女の主張をそのまま受け入れることは、まずありません。しかし、科学界や学術界と一般社会の乖離が激しいゆえ、世論がおかしな方向に流れて行ってしまっています。

まずは整理をしたいと思います。
根本的な問題点は2つしかありません。
1.STAP細胞の存在の有無(実験成功の証明)
2.論文中の不適切な表現方法に関する評価

のみです。極めてシンプル。
そして、これらは個々に独立した問題であり、別々に議論されるのが正しいです。どっちかが良ければどっちかは不問という事はありえません。

この2つ以外の問題を指摘して取り上げる方々が、マスコミも含めて非常に多くいますが、これら以外の事は実質的に主要な問題点ではありません。別の問題であり、本来の根本的な問題を複雑にしてしまっています。もちろん、これを社会問題と捉えて範囲を広げて深く考えることは必要ですが、上の2つを差し置いて論じるべきではなく、議論のトピックを別にすべきです。その際は、国家の研究体制、研究資金、科学教育、研究組織、マスコミ、女性、それぞれについて漏れなく議論すべきだと思います。
私達は、まずはそれをしっかりと理解すべきです。
この整理ができていないで、好き勝手な事を言っている人には「もっとしっかり勉強してください。そして間違ったことを堂々と言ってしまっている自分自身を恥ずかしいと思ってください。」と言いたいです。(非難は覚悟の上です。)


さて。その上で。
まずは1.について現時点での正解を書きましょう。正解は「わからない」です。

自然科学は状況証拠を一つ一つ丹念に積み重ねることによって、一つの説が立証されそれが論文になるのですが、特に現在問題となっている分野の研究は、点と点(状況証拠)を線で繋げるという過程がある点で推理小説と似たところがあると思います。推理小説では状況証拠が掴めないと警察の推理は全く立ちゆかなくなり「犯人はお前だ」などと言えたもんじゃありません。それと同様に、今回の問題でも現在の所、確実な状況証拠(確実なデータ)が示されていませんので、何の議論もできません。ゆえに、現時点での答えは「わからない」なのです。STAP細胞は「有る」でも「無い」でもありません。「わからない」です。
ですから「有る」ものとして彼女の正当性を支持するのは間違いですし、逆に「捏造」と決めつけて攻撃するのも間違いです。ただし、有ると立証できるデータが示されていないから疑う、という姿勢は科学者としてだけでなく一般的にもOKです。それゆえ、部外者同士が、有るのか無いのかの激しい議論をネット上で繰り広げているのを見ますが、どちらもダメなのです。しかし、その責任は小保方博士を始めとする研究チームにあります。やはり証拠となるデータを示すことが最重要ポイントとなるのです。ですから、この点に関して、他の科学者等からのデータに関する批判を無視した挙げ句、論点をすり替えて別方向からの反論を行う小保方博士と弁護士の態度は、非難されて然るべきでしょう。

続いて2.についてです。これは正解と言い切ってしまうことはできませんが、日本だけでなく全世界を含めた科学界のフィールドで生きる者として身に付けた一般論に照らし合わせると、彼女がしてしまったことは非難されて当然のことであり、科学というフィールドに立つ者としては決して許されない行為です。これはYskの見解ですが、悪意があろうが無かろうが、彼女のやってしまったことは科学者として既に責任重大だと思います。法的に不正に当たるかどうかは実際大きな問題ではなく、そもそもがダメなのですが、あくまで「どのくらいダメか」という程度の問題です。当の本人は法律のフィールドでその「程度の問題」に関して戦おうとしており、実際に世間の目をそちらに向かせることに成功しているのが現状ですが、その波にホイホイと安易に乗るのは間違いです。そのような状況であっても科学のフィールドは一歩どころか1ミリも引きません。むしろ引くことが絶対にあってはなりません。少なくとも科学のフィールドでは間違いなく御法度なのです。


以上、根本的な2つの問題に関するYskの見解を書きました。繰り返しになりますが、これら2つの問題は独立して扱われるべきです。現在の世間の風を感じるに、やはりSTAP細胞の有無が世論の方向性を大きく左右してしまう気がします。
STAP細胞の存在が確認されなかった場合、残念ではありますが事態はシンプルに収まります。一方、実際に細胞の存在が確認された場合、多くの科学者が世間から多大な非難を浴びることが予想されます。しかし、その非難は全くの的外れです。なぜなら、先の1.で述べた通り、細胞の存在の有無は現時点では「わからない」からです。そしてそのわからない原因は小保方博士側にあるからです。
更に、例えSTAP細胞があったとしても、彼女のした行為に対する評価が翻ることは無いでしょう。そこを混同してはいけません。情状酌量は実際の所あり得るかもしれませんが、非難はされて然るべきでです。感情的に彼女を信じていた人が、「ほらやっぱり有ったじゃないか!」と鼻が高くなるのも明らかに間違った姿勢です。2つの問題が別々に議論されるべきとはこのことを言うのです。STAP細胞の存在が明らかになった時に、彼女に謝罪しろとの風潮が巻き起こることが少なからず予想されますが、それは完全に的外れであり、むしろ、存在しているなら、尚更、なぜ他人に迷惑がかかる段階で発表してしまったのかという点、及び実際に多くの人間の時間とお金を浪費させてしまったという点からも、更に多くの非難を浴びるべきでしょう。もちろんその責任は彼女だけでなく組織全体で取らなければならないのですが。

それゆえ、現在STAP細胞の存在を疑っている多くの科学者は、仮にSTAP細胞が存在していたとしても全く批判の対象にはなりません。ただ静かに事実を確認すれば良いだけの事でなのです。ただし、Yskを含め多くの科学者は結果そのものに対して敬意を表し、賞賛することでしょう。


さて。この2つ問題が別々に独立して扱われるのとは別に、その周辺の問題を論じることは必要です。あくまで2つ主要問題の「周辺として」です。政治の世界に代表されるいわゆるある種の’文系社会'では、主要問題を無視して関係の薄い問題を引っ張り込んで来ては議論を複雑にして議論のペースを掴むということはありがちです。しかしながら、本問題に関する限りはそれをやってはいけないと思います。日本人全体がそのようなやり方に弱いというのはあるのですが、訓練する良い機会として問題をしっかりと整理すべきだと思います。そして、先にも書きましたが、周辺問題を取り上げる際は、国家の研究体制、研究資金、科学教育、研究組織、マスコミ、女性、それぞれについて漏れなく議論して欲しいと思います。
加えて、この過程では、議論という形よりも柔らかい世論というものが出来上がります。そして更にその世論の周辺にもっと柔らかい'物語'というのが出来るのが常です。その様な取っつきやすい表現体が社会に広がることには、良い部分もあれば悪い部分もあります。今回の件でも、それは既に起こっています。ガリレオの逸話と重ね合わせたり、他グループの陰謀説や年配研究者の妨害説という妄想、政治とお金という物語などです。この問題をゴシップ的に身勝手に楽しむということ自体は目をつぶるしか無いのですが、しかしだからと言って、科学的な結論が変わることは1ミリも無いと言うことを強調しておきたいと思います。
(下手もすれば、その物語の部分まで主要議論に入り込んできては事態をぐちゃぐちゃにしてしまうのが、日本社会の悪い習慣だと思います。これは改善すべきです。)



ちなみに、余談ですが、少しばかりその話に乗るなら、ガリレオの逸話に関しては的外れもいい所だと書いておきたいです。ガリレオは科学的データを基にした正確な分析によって地動説を主張したのであり、それを断罪したのは科学を理解しない宗教家でした。すなわち、ガリレオこそが科学者のフィールドから逸脱することなく戦った偉人なのであり、科学とは全く質を異にする宗教が社会的権力を掌握していた時代であったがために、彼は不幸にも悲劇の人になってしまったと言えるでしょう。
一方で、彼女はデータも示さず科学的な手続きも正確に行わず、法律に頼る姿勢からすると科学のフィールドからも降りていると言えます。逆に彼女を非難する勢力は、まさにガリレオが生きた道の上での議論を呼びかけているのであり、どちらがガリレオなのかはもはや明記するまでも無いでしょう。つまり、彼女をガリレオに擬える人は、残念ながら科学とそれ以外を全く混同しているのであり、更に残念なことに、自身の科学に対する無知または勉強不足を自分自身でさらけ出してしまっているのです。それゆえ、例えもし今後STAP細胞の存在が明らかになったとしても、彼女とガリレオとを重ねることはできないのです。



と、毎度のことながら長々と書きましたが、問題の本当の本当の本質って何なのでしょう?それは「確実なデータ」です。少し力を入れて書きます。

尊敬する森謙治東京大学名誉教授の著書の中に、「信頼できる確実なデータは科学のαであり、またωでもある」というのがあります。(ちょっと違ったかもしれないですが。)これは有機化学的な言い回しなのですが、αとは始めの一歩、ωとは最終到達点と思ってくれれば良いです。つまり、正確なデータが無ければ取っかかりの議論すらできない。そして、その正確なデータが十分に揃えば論争に終止符を打つことは自ずと可能になると言うことです。このSTAP問題の場合、まさにその「信頼できる確実なデータ」が示されていないために、我々は正確な議論もできなければ結論を導くことも出来ないのです。そしてその責任は小保方博士を含む著者達にあります。彼らが「信頼できる確実なデータ」を提供しない限り、この問題が解決することはあり得ません。それにも関わらず、その「信頼できる確実なデータ」として論文中に提示した図に、当人が言う所のありえない初歩的なミスがあるのと同時に、データを改ざんした痕跡が認められるが故に、科学界のフィールドの根幹である「信頼」を著しく喪失しており、いわゆる科学のαにすら至っていないと言えるでしょう。もちろん、言うまでも無く、現状のままでは科学のωへと到達することは明らかに不可能です。

(ちなみに実験ノートは結果を補佐するものであって完璧な証拠にはなり得ません。書くだけならいつだって誰だって出来るからです。偽装することだって可能です。科学で言う証拠とは、物理的な生データや加工していない生写真のことを言います。それが手元にあるのならそれを開示すれば良いだけの話なのです。手順を公開すれば特許が心配になりますが、結果の生データを一部の人間に見せても特許で先を越される心配は相当に低いのが通常だと思います。)


科学は民主主義や政治ではありません。例え1%の人しか指示しなくても正しいものは正しいのです。多数決では決まりません。世間を味方につけるようなことを行い、仮にそれに成功したとしても、科学の領域では何の意味もありません。
小保方博士や弁護士団は法律のフィールドへと引きずり込もうとしているのですが、この議論に乗れば乗るほど根本的な論点がずれにずれて行ってしまうということを、私達は常に忘れず、冷静に見極めるべきだと思います。懲罰が下る場合、その軽重に関して法廷で争うのは間違いではありませんが、もはやそれはこの問題における重要な点ではありません。小保方博士ら論文の著者がすべきことは、信頼できる確実なデータという科学のαを一刻も早く提供し、最終的に本問題を科学のωへと至らせることなのです。


現状では、日本社会と科学界の乖離は大きいままです。このままでは、多くの科学者が危惧するように、日本科学界全体の未来に大きな影響を及ぼしかねないですし、最悪の場合、日本の科学が世界から見放されることになるかも知れません。これは結局は一般の日本社会全体にとって由々しき事態になるのですが、残念ながらその破壊力抜群の影響力を想像できるのは、科学者自身だけというのが現状です。しかしながら、これは日本の科学者達自身に責任があります。私達、科学者は科学とは関係無い世界に生きている一般の人々との乖離を、全力で埋める責任が、今、あるのです。これが冒頭で書いた所の危機感と責任感です。黙ってただ傍観しているわけには行かないのです。

若僧のYskが言うのはおこがましいですが、こう呼びかけて結びたいと思います。


日本の科学者よ、危機感と責任感を持て。立ち上がれ。そして冷静に戦え。科学者らしく。感情的ではなく、淡々と、粛々と、そして力強く。1ミリたりとも引いちゃいけねぇ。絶対に。動かざること山の如し。



Yskでした。



あとがき:
Natureに発表した問題の2本の論文両方の責任著者:corresponding authorに小保方博士は含まれます。このcorresponding authorとは、この論文に関する責任の全てを私が負いますということです。その代わり、ノーベル賞などの成果は私がいただきますと言うことも同時に含みます。(これは私の理解なのですが。)筆頭著者はその研究を中心となってやった人、そして論文を実際に中心になって書いた人です。学術論文のauthorshipには、そのような宣言に近い意味があることも知っておいて下さい。ちなみに、笹井博士は指導者'的'立場と報道されていますが、2本のうち一つで責任著者です。若山教授も一つ。バカンティ教授も一つです。科学の世界では年齢や組織での立場に関係無く、論文上での立場に基づいて責任を問われるのが通常です。責任の軽重に関してはこれも知識として持ち合わせて発言をした方が良いでしょう。
更に、今回の論文は2本が親子の関係にあり、親の方で不正が認定されました。親の方が不正と判断された以上、子供の方は前提が崩れたことになり、論文としての体を成さなくなると考えられます。親の方の責任著者は小保方博士とバカンティ教授です。子供の方は小保方博士と笹井博士と若山教授。この子供の論文の扱いと責任問題がどのようにリンクして扱われるのかは意見が分かれる所だと思います。しかし2本とも責任著者の小保方博士は最も重い責任を問われてしかるべきです。それが博士号と責任著者の宿命だと思います。それゆえ、現段階で、彼女にだけ責任を押しつけているとか、トカゲのしっぽ切りという主張をするのは、必ずしも当たるとは限りません。理研の判断を見てから考える事だと思います。以上、今後の展開の参考にしてもらえればと思います。


参考:英国BBCでの報道を載せておきます。

参考2;Nature誌の方での取り扱い

参考3:Yskが読んで考えさせられた記事
http://www.chem-station.com/blog/2014/02/post-596.html#more
(問題発覚前)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140413-00010002-jindepth-sci
(以上は報道関連)
http://www.chem-station.com/blog/2014/02/post-596.html#more
http://www.chem-station.com/blog/2014/03/post-607.html#more
(以上は本問題に関連する記事)

だいぶ暖かくなったなあ。ちょと前の写真ですが。。。笑
やっぱイギリスはこれからの季節が最高ですわ。Lovely〜